手段としての「生きる」ということ

 生きることが手段であるのなら、目的は何であろうか?
 それは恐らく自己の保存であろうと私は思う。なぜなら生存本能という奴はどこにでも付いて回るもので、子供の頃はそれが上手く制御できないが故に、ありもしないであろう物を警戒して恐怖するのだと思う。*1子供の頃は少なくとも生存本能が何より強い証拠である。
 で、ある程度「自我」という奴が強固になると生存本能を理性や知識が抑制し(もしくは抑圧か?)何らかの別の目的を探し始めるわけである。もともと持っていた「生存」という目標を無理に書きかえる理由は、人が成長と同時に「無限に生きる人間はいない」という事を悟るからである。
 では、人は次に何を目的とするのか?それは多分、自己の保存だと思うのである。
 人は自分の存在した証を残したがる生き物で、音楽や書物、絵画や録音によって自己を表現し、記録するのはその代償行為ではないかと思う。あるいは子孫を残すという行動さえも「自己保存」といういびつな形の「生存」という目標があるからなのかもしれない。

*1:あくまで私の個人的見解で、あまり根拠はない